菖蒲の前伝説と日本の歴史

平成30年8月

令和4年6月修正・加筆


「菖蒲の前伝説の考証」では物語に沿って書きましたが、ここではもう少し踏み込んで書いてみようと思います。小学生にはちょっと難しい内容になるかもしれませんが、出来るだけわかりやすくなるよう心がけます。


菖蒲の前伝説の時代背景

 

「菖蒲の前伝説の考証」と重複するところもありますが、物語の発端となった以仁王の挙兵がなぜ起きたのか、当時の情勢を考えながら解説していきます。


院政(いんせい)

 

以仁王の挙兵が起きた平安時代末期の政治体系は「院政」と呼ばれています。この「院政」の仕組みを知ることで、この時代の出来事が分かりやすくなります。

今の日本の政治体系は「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」として、世襲君主である天皇を置き、国会を国権の最高機関とする議会制民主政治が行われ、国会と内閣の協働による議院内閣制が採られています・・・。

 

難しいですね・・。

 

図にするとこうなります。

「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」の天皇陛下は日本のトップですね。これは紀元前660年1月1日(2月11日)に即位した神武天皇に始まり現126代徳仁天皇まで変わることはありません。世界の中で最も歴史のある王室なんです。しかし、今の天皇は「権威」であって「権力」はありません。「権威」はみんなが「認めている地位」で、「権力」とは「他人を支配し服従させる力」です。

ですから、天皇が政治において「あれがしたい、これがしたい」ということはできないんですね。

今の日本の「権力」は、国民の投票によって選ばれた国会議員によって法律が決められる「国会」と、国会から指名され、天皇が任命した内閣総理大臣の下で行われる「行政」、そして「国民審査」を受ける裁判官のいる「司法」にあります。この「権力」が三つに分かれていることから「三権分立」と呼ばれています。

いきなり難しい話になりましたが、簡単に言えば「今の天皇には権力はない」ということです。

では、平安時代末期の政治体系はどうだったでしょうか。

その昔、天皇が「権威・権力」を持って政治を行っていましたが、平安時代になり、「藤原氏」という一族が「摂政(せっしょう)」や「関白(かんぱく)」といった役職について政治の実権を握っていきます。「摂関政治(せっかんせいじ)」と呼ばれています。摂関政治のもとでは、天皇は政治に口出しできないただのお飾りとなっていました。こうした状況に不満を抱いていた天皇家は平安時代末期、白河天皇が1086年に当時8歳の堀河天皇に譲位し、自ら幼い天皇を後見するため白河院と称して政治を行いました。これが「院政」の始まりです。

院政を行うことで自分の好きなように政治が行えるようになり、仕える役人や武士たちを自由に選べるようになりました。そんな中で登場してきたのが、北面武士と呼ばれる「平氏」や「源氏」です。

こうした武士は当時の警察にあたる「検非違使(けびいし)」とは違い、直接天皇家や公家に雇われ、働きぶりによって恩賞(給料)が変わってくる傭兵(ようへい)のようなものでした。

* 摂政は天皇が幼かったり病気などで政治を行うことができない時に、天皇に代わって政治を行う役職のこと

    関白は成人の天皇を補佐する役職


院政では天皇を退位した上皇が実権を握り、「天皇」や「役人」を自由に選べました。天皇家に仕える貴族たちは、自分の仕える皇子が天皇になれると自分たちが出世できるので、色々な策略をめぐらせ上皇やその役人などに取り入るようになりました。逆に呪いをかけて暗殺しようとする人もいました。そして1156年に権力の座を奪い合う「保元の乱」と呼ばれる争いが起きました。

* 天皇を退位すると「上皇(じょうこう)」と呼ばれます。さらに出家すると「法皇(ほうおう)」と呼ばれます。出家したからと言って実際にお坊さんになって修行するのではなく、普段と変わらない生活をしていたそうです。当時の流行だったようです。


保元の乱(ほげんのらん)

 

1129年崇徳天皇在位の時に白河法皇が亡くなり鳥羽院政が始まります。鳥羽上皇は崇徳天皇の父ですが、崇徳天皇のことを嫌っていました。それは正室である藤原璋子(たまこ・待賢門院)が鳥羽上皇の父白河法皇とひそかに結ばれていて、崇徳天皇は本当は白河法皇の子供ではないかという噂が立っていたからです。

さらに鳥羽上皇は側室の藤原得子(なりこ・美福門院)を寵愛(ちょうあい)していたので、その子・体仁親王(なりひと)を即位させるために崇徳天皇を退位させました。体仁親王は「近衛(このえ)天皇」となります。

しかし、この近衛天皇は体が病弱でした。

 

源頼政が鵺退治を行ったのはこの時です。(頼政は近衛天皇の姉・八条院に仕えていました)

この頃に鳥羽院に仕えていた「あやめの前」を妻にします。

 

* 一説には崇徳天皇の母、藤原璋子が近衛天皇に呪詛をかけたといわれます。当時の人たちは祟り(たたり)をとても恐れていたようで、武士のように人を殺す事はしていなかったようです。その代わり「呪詛(じゅそ)」という呪いをかけるまじないや儀式をしていたようです。

 

久寿2年(1155年)7月23日、17歳の若さで近衛天皇は亡くなります。近衛天皇には子供がなく後継者の第一候補者として崇徳上皇の子「重仁親王(しげひと)」があげられるが、藤原得子(美福門院)や藤原忠通(ただみち)によって阻止され「守仁親王(もりひと)」の父「雅仁親王(まさひと)」が即位することになりました。後白河天皇の誕生です。平清盛の父「平忠盛」は重仁親王の後見だったため、この後白河天皇の即位が平清盛が大躍進するきっかけとなります。

* 後見:お世話をしたりすること

崇徳上皇側にしてみればこれは面白くありません。さらに鳥羽法皇が亡くなる直前、崇徳上皇は見舞いに訪れたけど、断られました。葬儀に参列することもできませんでした。

こうしたことから崇徳上皇は後白河天皇側に不満を持つようになります。

こうして起きたのが「保元の乱」です。

天皇家と公家の藤原家での兄弟同士の争いですが、それぞれ仕えていた武士の平氏や源氏も巻き込まれるかたちで、親子や兄弟で対立することになります。源頼政も弟の頼行と対立する事になりました。

 

この天皇家や公家の権力争いで、武士が活躍し、武力をもつ武士の存在が大切になり、武士たちの地位がだんだんと上がっていきます。

 


保元の乱は後白河天皇側の勝利に終わり、崇徳上皇は讃岐(香川県)に配流(追放)されます。

この功績によって平清盛は播磨守(はりまのかみ)に、源義朝(よしとも)(頼朝の父)は佐馬頭(さまのかみ)に昇進します。が、自分の働きによって勝利に導いたのに清盛の方が恩賞が大きかったことを義朝は不満に思います。また、敵方に回った自分の父や弟を自分の手で処罰(殺す)ように命令されます。このことが平氏と源氏の対立を生むようになり、また、武士という地位ではどんなに頑張っても天皇家や公家に好き勝手に使われるだけのものでしかないという事に気づき始めます。

 

保元の乱の後、公家の中で大頭してきたのが藤原信西(しんぜい)です。そして後白河天皇は息子(二条天皇)に譲位(じょうい)し自ら院となり政治を行います。源頼政は二条天皇方に仕えます。(当時頼政は八条院に仕えていた。八条院は二条天皇の准母(じゅんぼ:天皇の養母)であり、義理の姉(妹の高松院は二条天皇の后))


平治の乱(へいじのらん)

 

後白河院政下で公家は信西、武家は平氏の勢力が強くなっていきます。清盛は自分の娘を信西の息子に嫁がせるなどして結びつきを深めていきます。これに対立する形で藤原信頼(のぶより)が源氏と結び反信西勢力としてチャンスをうかがっていました。

平治元年(1159年)12月、清盛は熊野参詣に出かけます。清盛が京都にいない今がチャンスと信頼・義朝らは後白河上皇や二条天皇の身柄を確保して自分たちの手中におさめます。

この時信西は逃げますが、やがて追っ手に追いつかれ自害します。

この時頼政は二条天皇を守る立場にあるので、信頼・義朝方に味方する形となっています。また、源頼朝はこの時が初陣となります。

知らせを聞いた清盛はすぐに京へ帰りますが、驚いたことに信頼方に恭順(きょうじゅん)の意を表します。しかし、これは清盛の策略で、信頼が安心したスキをみて後白河上皇と二条天皇を脱出させます。

* 恭順:つつしんで従う態度をとること

二条天皇を警護していた頼政はここで平氏方に味方する事となります。あくまでも帝をお守りするという立場を崩さなかったのです。

そして、信頼・義朝らの討伐に向かいます。信頼は捕まり、公卿(くぎょう)であるにもかかわらず斬首(ざんしゅ)されます。義朝は逃げる途中に家臣の裏切りで暗殺されます。息子の源頼朝は父・義朝とはぐれてしまい追っ手に捕まりますが、平清盛の母「池禅尼(いけのぜんに)」が「まだ13才の頼朝の命だけは助けてくれ」と清盛に命乞いし、伊豆への流刑となりました。まだ幼かった頼朝の弟「義経(よしつね)幼名 牛若丸」は鞍馬寺へ預けられます。
ちょっと余談ですが、義経の母「常盤御前(ときわごぜん)」はこの後平清盛の側室となり、そこに生まれた天女姫が疱瘡(天然痘)にかかり治癒祈願で厳島神社を訪れます。しかし祈願の甲斐もなく姫は帰京の途中で亡くなります。この姫を弔うために建てられたのが疱瘡神社で、広島市南区堀越にあります。


* 公卿(くぎょう)とは貴族(身分の高い公家や武士)のなかで政治を行う人々のことを言います。政治を行う人とは官位が従三位より上の人


治承三年の政変(じしょうさんねんのせいへん)

 

平治の乱の後、1160年に平清盛は正三位に任ぜられ武士として初めて公卿となります。1161年には後白河上皇と義理妹の慈子との間に後に高倉天皇となる男の子が生まれ、清盛の地位は盤石なものとなります。そして1167年に清盛は太政大臣に就任します。

平家の勢力が拡大してくると面白くないのは公家たちです。かつては自分たちより身分の低い武士が政治を行うことが許せませんでした。やがて反平家勢力が事を起こそうと画策します(鹿ヶ谷の陰謀:しかがやのいんぼう)。しかし、密告により関係者たちは捕まり処分されます。この時に後白河上皇が関係していたと噂され、清盛と後白河の間に亀裂が生じてきます。

1178年(治承2年)には高倉天皇と清盛の娘・徳子の間に言仁親王(ときひと)が誕生します。1179年(治承3年)に清盛の息子「重盛」が亡くなります。後白河院はこの重盛の知行国を没収してしまいます。こうした反平氏勢力を排除するため清盛は後白河院を幽閉(ゆうへい:見張りを付けて一室に閉じ込める)し、側近たちを処分し院政を停止させます。これが「治承三年の政変」です。

政治の実権を握り平氏政権が誕生しました。清盛は自分の孫・言仁親王(ときひと)を即位させます。安徳天皇です。数え年で3才(満1才4ヶ月)でした。

後白河法皇の第三皇子の以仁王は安徳天皇の即位で自身の皇位への望みが絶たれました。


以仁王の挙兵(もちひとおうのきょへい)

 

 

 

一方、頼政は治承2年に清盛の推挙により従三位に昇進します。これは平氏以外の武士が公卿になることは異例のことでした。この時頼政は75才。翌年出家し家督を息子の仲綱に譲ります。

 

源頼政が、なぜ挙兵したのかは諸説ありはっきりとはしていません。

「平家物語」では仲綱の馬を清盛の三男・宗盛が欲しがりトラブルが起きたとされていますが、その程度のことで挙兵するとは思えません。

  

しかし、当時頼政の仕えていた八条院との関係を考えると、納得できると思います。

平清盛は天皇家の人間になることで武士がトップになろうと考えていたと思われます。

しかし頼政は天皇家を支えることが武士の務めと考えていたのではないでしょうか?主家に忠実である事を武士の誇りとしていたのではないでしょうか?


以仁王が全国の源氏に向けて出した平家追討の「令旨(りょうじ:皇太子が出す命令)」は八条院に仕える源行家が源頼朝や全国の武士に届けたと伝わります。

いずれにせよ以仁王と源頼政は手を組み、平家追討を計画します。しかし、計画が平家方にばれてしまい、それを知った頼政は自宅に火をつけて園城寺に入り以仁王と合流します。

あやめの前はこれよりも前に(挙兵の計画の時点で)西国へ逃れたと思われます

そして宇治の平等院で頼政は自害します。

以仁王の最後は諸説あり、越後(新潟県)長岡へ落ち延びたという伝説もあります。
少し話がそれますが、頼政の弟・頼行は保元の乱の後、安芸の国(広島)へ配流になりましたが、護送される途中で役人を殺害し、自身も自害して果てました。頼行の子供たちは頼政の養子となりました。その子孫がこの越後長岡の小国郷というところに豪族として存続しています。


治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)

 

この以仁王の挙兵をきっかけに1185年まで続いた平家討伐の戦いを「治承・寿永の乱」といいます。「源平合戦」とも呼ばれます。以仁王の令旨を受け取った源頼朝はしばらく静観していましたが、平氏が源氏討伐の兵をあげたことを知り挙兵します。伊豆を制圧した頼朝は次に関東の制圧に向かいます。この時に頼朝に従った武将の中に「土肥實平(どいさねひら)」「土肥遠平(どいとおひら)」親子がいました。後に安芸国沼田荘(広島県三原市)を所領とし、戦国時代に活躍した毛利元就の三男・小早川隆景やその子・秀秋の祖となります。
あやめの前の居城・二神山を攻めたのが、この「土肥遠平」だったのです。
関東制圧に向かった頼朝は石橋山の戦いで敗れ、安房国(あわのくに:千葉県)へ敗走します。この時に頼朝の無事を、頼朝の妻・政子に伝えたのも土肥遠平といわれます。

やがて関東を制圧した頼朝は鎌倉を拠点とします。1180年10月20日平維盛(これもり)率いる討伐軍と富士川(静岡県)で対峙しますが、水鳥の羽音を奇襲と勘違いした平氏軍は敗走します。戦わずして勝利した頼朝軍は京都へと向かいます。(頼朝本人は鎌倉に残り弟の範頼、義経が軍を率いていました)

平治の乱の後鞍馬寺に預けられていた義経は京都を脱出し奥州藤原氏を頼って平泉(岩手県)に下っていました。頼朝の挙兵を知るとすぐに駆け付けたのでした。

 

京都では、頼朝と同じように令旨を受け頼朝より先に平家討伐に立ち上がった源(木曾)義仲がいました。この義仲と頼朝軍は京都で衝突してしまいます。頼朝軍は「宇治川の戦い」で義仲に勝利します。

一の谷の戦い、屋島の戦い、壇ノ浦の戦いと義経の活躍によって源氏は勝利するのですが、やがて頼朝との間に軋轢(あつれき:仲が悪くなること)が生じてきて奥州で戦いとなり自害します。

この源平合戦の戦いで、土肥実平・遠平親子は義経軍、範頼軍に従軍し、その功績から実平は長門国・周防国(山口県)、遠平は安芸国沼田荘(広島県三原市)を与えられます。


平清盛は富士川の戦いの翌年、源平合戦の始まったばかりの1181年閏2月4日に熱病で死去しました。

清盛の信仰厚かった厳島神社の神主・佐伯景弘は一貫して平氏方支持していたが、平氏滅亡後源頼朝に接近し、神主の役職にあった。この佐伯景弘の娘と水戸新四郎頼興は結婚します。頼興の娘・薗菊姫は猪隼太(勝谷右京)の息子と結婚し、息子の豊之丞は「野坂源左衛門」と改名し、今にその末裔が伝わっているそうです。


源氏の勝利で終わった治承・寿永の乱から6年後、1191年に源頼政の子(孫?)水戸新四郎頼興は賀茂一郡を賜り二神山城へ入城します。

1192年に源頼朝が征夷大将軍に任ぜられ源氏の世となり、あやめの前たちは平和に暮らします。しかし、1204年に土肥遠平が攻めてきてあやめの前たちは二神山城を追われることになるのです。


これは厳島神社を正面から見た写真です。手前が高舞台、奥が祓殿です。〇印の灯篭、実は「頼政灯籠」と言います。このことはほとんど知られていないのですが、平清盛の史跡巡りの時に見つけました。これは複製品なのですが、宝物館に実物があります。頼政の29代後の子孫が奉納したものだそうです。意外なところで平清盛と源頼政の結びつきがあり、見つけた時には驚きました。

 

 

さらに平舞台の先端(火焼先(ひたさき))にあるこの燈籠は「唐金燈籠(からきんとうろう)」と呼ばれています。

古来より神前中心線上には鳥居以外の物は立てていけない決まりになっていて中央に燈籠が置かれるのはとても珍しい事です。

これは1667年に小田権右衛門政治という人が鉄製の大鳥居を寄進したときに「従三位兵庫頭源頼政朝臣の後裔(こうえい)」と彫ったのですが、この文言では浅野藩主より小田氏の方がずっと上位になるため、藩の重役の逆鱗に触れ撤去させられたそうです。

そこで小田氏は1670年に唐金の燈籠を寄進し、大鳥居の代わりとして古来からの禁を犯して中央に置くことを許されたらしいです。

*後裔(末裔・子孫の事)