菖蒲の前(あやめのまえ)伝説
平成27年9月16日
平成30年2月加筆
8月加筆
令和2年2月リンク切れ修正
令和4年6月加筆
今年始めに原小学校の先生から、私のHPを参考にして夏休みの自由研究課題を「菖蒲の前伝説」にして賞を取った小学生がいる、と聞きびっくりしました。拝見させていただくと、かなりしっかりとまとめられており感心しました。
試しにGoogleで「あやめの前伝説」で検索してみるとかなり上位に私のHPが表示され、さらに驚きました。
2年半もの間ほったらかしにしておいたので、これはまずいと思い。加筆することにしました。
平成30年2月1日
私の母校「原小学校」では毎年11月に行われる学習発表会で児童全員による総合表現「菖蒲の前伝説」が発表されています。
この「菖蒲の前伝説」は東広島に伝わる伝説で、平安末期から鎌倉時代初期に生きた、菖蒲の前という女性の半生を綴った物語なのですが、その菖蒲の前の終焉の地
が、八本松町原であり、地元の小倉神社に祀られているということで、小学校で総合表現の題材として取り上げられています。 その内容は、「神楽の舞」「群読表現」「全校合唱」によって構成され、かなり本格的なものです。(コロナ禍の影響で現在は行われていませんが、5年生が劇で発表をするそうです)
東広島市のHPにこの物語が紹介されているのですが、かなり省略されているので、もう少し詳しく紹介させていただこうと思います。また、当時の時代背景や物語の時系列を追うと信憑性にかける部分もあるのですが、その辺の考察もしてみようと思います。
この「菖蒲の前伝説」は、小倉神社縁起書、小倉寺由来記、福成寺縁起由来記などの古文書を基にして作られたそうです。
静岡県伊豆地方や新潟県、兵庫県にも菖蒲の前にまつわる話が残っているそうなのですが、どれも真偽の程はわかりません。ただ、広島県呉市安浦町にある「稚児の明神」という所にも菖蒲の前が京都か落ち延びた際に寄ったと言われる伝説があるそうなので、こちらへ来たのが濃厚と考えたいですね。
そもそも「菖蒲の前」「源頼政」は誰なのか?
源頼政は摂津源氏の武士。
「源」姓は第56代清和天皇の孫、経基(父は貞純親王)が臣籍降下(皇族の身分から貴族(公卿)に降りること)の際に賜った姓で「天皇家を源(みなもと)とする」が起源。
1104年に生まれ、保元・平治の乱などで活躍。なかなか昇進出来なかったが、1178年74歳の時に源氏として初めて従三位(じゅうさんみ)の位に就いた。
これまで武士は政治に参加できる従三位以上の位に就くことは出来なかった。平忠盛、清盛に次ぐ昇進。
以仁王(後白河法皇の第三子)とともに平家討伐を決意し、翌1180年4月諸国の源氏に平家討伐の令旨を伝えた。しかし計画がばれて平家の追討を受けて、宇治橋の戦いに敗れ宇治の平等院で自害(5月26日)。
このことがきっかけで源頼朝らが挙兵、源平合戦へとなっていく。
菖蒲の前は亰の生まれとも伊豆長岡の生まれとも伝えられる。鳥羽上皇の女房(仕える人)だった。
菖蒲の前伝説では頼政の鵺退治の功績で頼政の側室となっているが、源平盛衰記では頼政が菖蒲の前を見初めていたが、帝にばれて同じ年恰好をした数人の中から菖蒲の前を当てろといわれた際に「そんなこと出来る訳ないじゃないか」と読んだ歌に感心して賜ったと伝わる。太平記にもこの件が登場するが、またちょっとニュアンスが変わっている。(考証のところでもう少し詳しく紹介しています)
このような平家物語や源平盛衰記などが基にされて「菖蒲の前伝説」は出来たのではないかと考えられます。
さあ、菖蒲の前伝説を紹介します。ゆかりの地も一緒に紹介していきますので、近くへお越しいただくことがありましたら、是非お立ち寄りいただければと思います。
東広島市立原小学校総合表現「あやめの前伝説」
総合表現冒頭の一節です(群読)
遠く八百年余りも昔
みかどのそばにお仕えした あやめの前
後に 源 三位(みなもとのさんみ)頼政の妻となり
いくさにまきこまれほんろうされ
多くの悲しみを背負った、あやめの前
深い えにしの糸にあやつられ
原の里においでになり、
この地で お亡くなりになり
この地の 守り神となられた あやめの前
私たちは、あやめの前ゆかりの原小学校の校章と
校旗を大事にしていこうと思います。
菖蒲の前伝説その1
平成27年9月17日
平成30年2月加筆
それでは「菖蒲の前(あやめのまえ)伝説」始まりです。
平安末期、仁平三年(1153年)春、近衛天皇(このえてんのう)は夜な夜な現れる怪物に悩まされ、病が重くなるばかりでした。そこで、源頼政(みなもとのよりまさ)という武将に鵺(ぬえ)退治を命じ、見事頼政は鵺を退治しました。その褒美として「菖蒲の前」を妻にめとりました。
以仁王(もちひとおう)による平氏討伐の計画が平氏にばれて、頼政は治承四年(1180年)宇治橋の戦いに敗れ、宇治の平等院で自害します。(享年77歳)
辞世の句
埋もれ木の 花咲くことも なかりしに
みのなるはてぞ かなしかりける
夫・頼政を失った菖蒲の前は身重でしたが、三歳になる種若丸の手をひいて安芸国に落ち延び、賀茂郡西条「千尋の滝」の岩屋に身を隠しました。
しばらく後、種若丸は病死してしまいます。悲嘆にくれた菖蒲の前は、滝のそばに御堂を建て、歌を詠みました。
吾妻子や 千尋の滝の あればこそ
広き野原に 末を見るらん
それ以来、「千尋の滝」は「吾妻子(あずまこ)の滝」と呼ばれるようになり、滝のある一帯を東子(あずまこ)と呼ぶようになったと伝えられます。
その後、菖蒲の前は近くの寿福寺(現・得行寺)に身を寄せ、豊丸を出産。そして庵を建立して頼政の像を納めました。それが、今の観現寺(西条町御薗宇)です。
観現寺には頼政の家来、猪(野)隼太(いのはやた・井早太(隼太))の墓と伝わる・宝篋印塔(ほうきょういんとう)(東広島市指定文化財)があります。
猪隼太は鵺退治の折に、頼政が射とめた鵺にとどめを刺した武将として知られています。
菖蒲の前を守るため、共に西条へ落ち延び、勝谷右京(しょうやうきょう)と名を改め、菖蒲の前が頼政供養のために納めた像のある観現寺を守りました。
建保4年(1216年7月8日)没、享年84歳。
観現寺は今も現存しています。賀茂自動車学校から少し黒瀬川を下ったところにあります。
そんなに大きなお寺ではないですが、色々なお堂や石鎚神社があります。駐車場もありますので車でも大丈夫です。
吾妻子の滝は御薗宇小学校のすぐ近くにあります。国道375号サイエンスパーク入り口を小学校方面(東方面)に入ってすぐに駐車場があります。そこから徒歩1分です。
吾妻子の滝周辺は平成30年7月西日本豪雨により被災しているようです(未確認)。気を付けて散策してください。
菖蒲の前伝説その2
平成27年9月18日
平成30年2月加筆
8月加筆
西国安芸の国西条へ落ち延び、豊丸を生んだ菖蒲の前、平穏な日々を過ごしておりましたが…。
文治元年(1185年)、平氏が壇ノ浦に滅び、その後、鎌倉に幕府が開かれます。
菖蒲の前は頼政の功績によって賀茂一郡を与えられ、息子の頼興(よりおき)(豊丸)とともに二神山(西条町下見)の城に入りました。そして、菩提寺として下三永の福成寺を再建します。
平穏な二十年が過ぎた頃、沼田荘(三原市)の土肥遠平(どいとおひら)が二神山の城を攻めたてました。
突然の夜討ちに、城はまたたく間に攻め落とされ、親子は散り散りになり、菖蒲の前は侍女の鶴姫とともに白馬に乗って逃げました。
しかし、追っ手の追跡は厳しく、ある池のほとりに差し掛かった時、鶴姫がこう言いました。
「あやめの前さま、もはやこれまでにございます。私が身代わりになります。その隙に、少しでも遠くへお逃げください」
菖蒲の前を逃がした鶴姫は追手の前に立ち塞がり、
「われこそは、あやめの前なるぞ。最期のほどをとくと見よ」と、池に飛び込みました。
この池は後に「姫ヶ池」(八本松町原)と名付けられました。
菖蒲の前は、池から遠く離れた場所まで足を進めていましたが(八本松西水が迫の滝)、ふたたび追っ手に捕まりそうになり、乗っていた白馬の腹を切り裂いて、そのなかに隠れました。
追っ手は馬が死んでいるのを見て、菖蒲の前も一緒に死んだものと考え、去って行きました。
その後、菖蒲の前は曾場山(曾場ヶ城山)の山中に逃れました。その場所が京都の小倉山に似ていたため、小倉山と名付け、庵を建て、髪をおろし、西妙(さいみょう)と名を改めました。
西妙尼は、亡くなった頼政、種若丸、鶴姫、愛馬を弔いました。
菖蒲の前は賀茂一郡を与えられた折に、当時の下原村を御薗宇と改めたといわれます。今のフジグラン東広島店周辺です。観現寺に御薗宇堂というお堂がありますが、このことと関連があるのかは判りませんでした。
福成寺は当時、源平の合戦の折に平氏が立てこもり、源氏の猛攻を受けて寺の伽藍は消失していたそうです。現在も「源三位頼政卿竝西妙尼一族 追慕碑」という石碑があります。
そして福成寺は夫婦杉が有名ですが、菖蒲の前が植えたとされているそうですが、真偽の程は・・・。
寺の境内には地元の有志によってシャクナゲが植樹され、今ではこちらの方が有名かもしれません。
シャクナゲの時期(5月中旬)は大変多くの方でにぎわいます。
姫ヶ池は現在も残っています。平成27年4月末に白鳥がやってきたと、中国新聞の記事になりました。
そして白馬を祀ったのが馬頭観音で、現在は八本松駅北側にある疱瘡神社境内に祀られています。白馬のお腹に隠れたとされる場所には滝の谷馬頭神社があります。国道二号線(西条バイパス)八本松トンネル近くです。
滝の谷馬頭神社のある水が迫の滝周辺は平成30年7月西日本豪雨による土砂崩れが起きています。気を付けて散策ください。
菖蒲の前伝説最終話
平成27年9月19日
平成30年2月加筆
令和4年2月20日加筆
髪を下ろし尼僧となった菖蒲の前(西妙尼)、弔いの日々を過ごしておりました。
ある時、西妙は、自分の死が近いことを予感して、辞世の歌を詠まれました。
定めなき 世をうき事に 見かぎりて
菩提の道に 入るぞ嬉しき
すみはてぬ 世を秋風の 身となれば
消ゆる間をまつ 山かげの霜
それから仕える人達に、「今から洞窟に入って笛を吹くが、笛の音がある間は、決して中を見ないように」
と言い付けられて、洞窟に入られました。
洞窟からは美しい笛の音が聞こえていましたが、6日後に笛の音が止み、菖蒲の前はお亡くなられました。
元久元年(1204年) 8月27日のことです。享年78歳
その後、菖蒲前は小倉大明神として祀られました。現在の小倉神社です。実は小倉神社は二つあります。山の中にある神社(本社)と集落に近い県道沿いの小倉神社(遥拝所)、山の中を「上の小倉神社」、集落に近い神社を「下の小倉神社」と呼んでいました。上の小倉神社の横には、現在も菖蒲の前の墓があり、その周りには家臣たちの墓が菖蒲の前の墓を守るように並んでいます。
2~3年くらい前から神社の修復や木の伐採が行われて、自動車でも神社の近くまで上がれるようになりました。
以前はうっそうとしていた参道・墓所・社殿が明るくなりました。
令和4年6月加筆